タイトル 世界のごみ箱

ごきぶりと殺虫剤の話

  先日友人と下宿で酒を飲んでいると部屋の隅の方でカサカサと音がする。こおろぎでも入ってきたか、風流だなと思いながらとそちらを見るととんでもない、ゴキブリであった。
 ゴキブリ・・・嫌な奴である。たった4文字の名前の中に2つも濁音を持ち、また“ブリ”という響きの余りよくない尻尾(?)を持つこの昆虫はそもそも食器(御器)にかぶりつくという「御器かぶり」から転じたそうで丁寧語の御を頭に付ける由緒正しき名前のようだ。
 しかし筆者はどうもあれは苦手である。彼らはどうしてあんなに素早く動き回れるのであろう?部屋で電気を付けた瞬間のあの逃げ足の速さには全く恐れ入る。しかも殆ど許しがたいことに奴らは地面をはうだけならいざ知らず、大胆にも空まで飛ぶ。蝿叩きでも持ってカーテンにいる彼らを叩こうとでもすれば突然飛びながらこっちに向かって来る。あの時の恐ろしさ。思わず全てを放り出して逃げ出したくなるのは私だけではないだろう。またその飛び方もなんとなくどんくさい、というか不快感をかき立てるような雰囲気がある。文献をきちんと調べた訳ではないが、古来ゴキブリの飛ぶのを見て大空への思いを湧き立たせた詩人はおるまい。
 とにかくそのゴキブリが下宿で現れたのである。普段なら物音でも立ててゴキブリ殿に逃げていってもらうのをじっと待つのだが、幸か不幸か筆者はその時アルコールを飲んでおり、また友人と一緒であった・・・私たちの心にふと殺意が生じたのもそれほど不思議ではない。かくして右手に丸めた新聞紙(悲しいかな下宿には蝿叩きがなかった)左手には先の住人が残していってくれた殺虫スプレーといういでたちでゴキブリと相対することになった。
 しかし勝負は以外とあっけなかった。カーテンのひだの間に隠れたゴキブリは殺虫スプレーの一吹きを浴びてしまったのである。2、3歩(6本の足だからどう数えるのかよく分からぬが筆者にはそう見えた)歩いた彼は突然もんどり打って床に落ちてしまった。そして腹を上に向けたまま苦しみながらクルクル回って一生懸命逃げようとしているではないか。僕は彼にこれ以上断末魔の苦しみを味合わせるに忍びなく、ひと思いに新聞紙で叩いてやり、ごみ箱へ葬った。
 葬儀を終えた後、再び友人と酒を酌み交わす僕の心には、核戦争で人間が滅亡しても生き残る、とさえ言われているあのゴキブリをあそこまで苦しめた殺虫剤が平気で一般家庭で使われているという現実に対する恐ろしさと、生態系を構成する一生物を殺してしまったという空しさで溢れかえっていた。

※ この文章は,学生時代にミニコミ誌『みどりむし』にコラムとして書いたものを一部加筆修正したものです。


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